さる5月29日雨の降る中、藤岡市にある大和家旅館にて、藤岡多野支部の今年度初の総会を開催した。飯野佑一会長(46卒)にご参加頂き、群大医学部のスライドを見ながら古い思い出話やクラブ活動・研究時代の話を聞き昔を懐かしんだ。また今回の第2外科での問題の経緯などお話しいただいた。
 参加者はこの回までの支部長井田仁一(41卒)の呼びかけで、今年度幹事の根岸和子(44卒)に野村光男(54卒),他に松本文吾(25卒),田中壮佶(44卒),上原克昌(45卒),鈴木忠(45卒),秋山典夫(50卒),藤生善一(50卒),石崎政利(52卒),田中隆行(54卒),小山幸男(58卒),塚田義人(62卒),設楽芳範(62卒),深沢和浩(63卒),田中雅史(H3卒),私相原芳昭の総勢18名で美味しい料理の数々を堪能した。(敬称略)
 今回は脚光を浴びている多野藤岡地域の歴史と大和家旅館さんの紹介をしたいと思う。
 医師会の歴史としては、終戦後群大出身の諸先輩方はこの藤岡多野地区で医師会会員として活躍し、齋藤武元会長(23卒)が開拓してこられ、その後若林秀昭元会長(30卒),大野治俊先生(28卒),大月邦夫先生(40卒)は保健所長として時代を切り開いた。江原洋一前会長(38卒)は医師会の模範として3期務められた。鈴木忠前藤岡総合病院長(45卒)はこの地域の予防医学・地域活動に貢献し、群大出身者も参加し救急医療体制の充実を図り維持してこられた。
 現在では石崎政利藤岡総合病院長、田中壮佶しらさぎの里施設長、清水透藤岡総合病院付属外来センター長が活躍中。江原洋一前会長,宇野治夫日高リハビリテーション病院長(53卒),私相原で地域包括活動をやっている。
 さて、世界遺産登録で人気となった富岡製糸場関連施設の高山社跡。なぜこの藤岡に絹産業が根付いたのか、それは古墳時代に遡るという。日本書紀によれば535年に設置された緑野屯倉(みどののみやけ)が藤岡市域とされ、全国でも特に多くの古墳が存在する。古墳からは埴輪とともに「紡錘車」という糸を紡ぐ石の道具が出土している。711年には日本3古碑の1つ多胡碑が建てられ、この頃大陸伝来の養蚕と織物技術が盛んになったという。室町時代、上杉氏が6代に亘り関東管領を務め東国を治めた。1438年には平井城が築城され城下には6万人の都市があり、この頃鎌倉や京・東国諸国へ通じる道路が整備された。これが後の江戸時代に絹などの集積や交易の中心地として発展することに繋がる。
 藤岡には2つの鎮守、諏訪神社と富士浅間神社がある。各々が安永年間から宮神輿を持ち現在の藤岡まつりでも渡御を行っているが、その頃藤岡での絹市の取扱い量がずば抜けて多かったという。松阪屋・大丸・白木屋・蛭子屋・大黒屋・桝屋などの大店はじめ40店ほどが商いを営んだが、中でも三井越後屋は特に大商いだった。
 明治になり富国強兵・殖産興業のため絹産業を振興し、日本初の官営製糸場の設置が繭・絹生産・取引の中心地であった藤岡周辺で検討された。当時の藤岡はすでに「座繰り」技法という生糸を大量生産する体制を確立していたため、機械化や条件の整った富岡に設置されることになった。
 そんな藤岡だが、絹市で繁栄していた江戸時代には文化的にも開花し、多くの逸材を生んだ。上毛かるたにも詠われる世界3大数学者の一人、関考和。江戸随一の美人画浮世絵師菊川英山は、晩年を娘の嫁ぎ先の藤岡町で過ごし数々の作品を残した。そのうちの1枚は大和家に飾ってありいつでも観ることができる。明治時代には高山長五郎が養蚕改良高山社を設立し、のちに養蚕学校となる。零戦の設計者堀越二郎は出身校藤岡高校の創立記念日に講演し、その時の記念写真も大和家にかけてある。
 絹の話中心になってしまったが上州藤岡瓦も有名で、私が藤岡に来た頃は瓦工場からのびる煙があちこちに昇っていたものである。藤岡音頭にも歌われており、工場が減ってしまい残念だが、市内の小学生は藤岡瓦の鬼瓦を作るのが恒例で伝統を受け継いでいる。
 最後になったが大和家旅館さんの紹介をしたい。創業は明治22年、繭や生糸の取引が盛んだった藤岡町に旅屋(はたごや)として開業。江戸前大和鮨、うなぎ天ぷらなどが味わえる大和家茶寮、会議等にも利用できる割烹旅館として130数年営業している老舗である。
 これからはこの藤岡多野地区で医療介護を中心にして、地域の人達の心を活性化し人間関係を豊かにするのが我々医療介護関係者に期待されていることだと自覚している。


 






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