私達のクラスは昭和29年に医学専門課程入学した60名で、その頃、誰の発案だったか「竹の子クラブ」とクラス名を付けて現在も続いています。昭和33年に卒業となり今年は丁度卒後60年の記念すべき節目の年となりました。卒業して半世紀を遥かに超え、分厚い同窓会誌でも前の方のページに名前が記載されるようになって随分と久しい。卒業時58名だったメンバーも29名がこの世での仕事を終えている。
 この永い間、黙々とクラス幹事として、クラスの世話役を引き受けていてくれる神山照秋、永島勇両君には感謝です。クラス会も当初は群馬在住、東京在住、そして神奈川在住の3ブロックに分けて、それぞれ持ち回りで交代に主宰開催されておりました。元気よく派手でした。それが年年歳歳少しずつ声が小さくなった。クラス会は縁遠いものとなった。それでも、前橋周辺では「竹の子クラブ」の小クラス会は引き継がれておったとのこと。松浦鎮君の叙勲祝賀会を兼ねたときには参加いたしました。そして昨年は永島勇君が叙勲 瑞宝双光章に輝きました。
その席上、来年度は卒後60年の記念すべき年に当たるので、東京在住班でクラス会を主宰せよとのことになり、小林暉佳(青梅成木台病院理事長)を幹事に、湊正と鈴木が協力することになりました。
 平成30年5月17日 目白の椿山荘で昼食会でのクラス会を開催することに決定。案内通知は25名に発送し、出席返事は6名。欠席返事17名の多くは出掛けるのが億劫なだけで、元気な様子。80代半ばになり無理もない。クラス幹事の勧めもあり夫人同伴も呼びかけている。一昨年も東京で開催したが、その時は13名でした。今回は6名(夫人連を含めて9人)。淋しくなりました。
 会は神山君のこの一年の訃報の報告から始まった。松岡、松本淳、飯島、そして大山君。飯島君などは今回の会合に欠席の返事と電話の声があったのに残念。
 学生時代の思い出話は恒例。永島君から「あれから25年」と題した小冊子を昭和60年に刊行したが、その思い出。当時のクラス幹事西形雄次郎君との苦労話。それは卒後25年、クラス全員の近況と抱負を綴ったものである。写真付きでよく出来ていた。あれから、更に四半世紀以上経った。忘れかけていたが、永島君が2〜3部再配布してくれた。そして、その表紙絵は水彩画家池田信子氏の作品で、原画は元がんセンター院長の松浦鎮君の手元にあると言う。昔懐かしの病院正門を描いたもの。永島君が写しを丁寧に額装して配布してくれた。
 出席者も年寄りになったが皆元気。遠藤正文君は野田市で息子さんと産婦人科診療をやっている。湊君は相模原病院名誉院長のあとは、産業医としてまだ活躍している。神山君は若者が乗るよう格好いいスポーツカーに乗り、老健施設長である。鈴木は東京の片隅で小さな耳鼻科をまだやっている。
 卒後60年記念のクラス会。参加者が少なかったが、これで終わりとせず次回も会開催をと固く約束して散会となった。(小林,鈴木記)

後列左より     神山   永島   湊   小林   鈴木
前列左より     遠藤   遠藤夫人  鈴木夫人   永島夫人







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